京都巡りの旅vo.3『ラーメン恵比朱と坂本龍馬暗殺の跡地近江屋篇』

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 1

どーもおすぎぜよ!いきなり土佐なまり笑

今回は京都巡りの旅、第3回目と言う事で、京都のラーメン屋『恵比朱』と幕末最大のミステリー跡地『近江屋』をレポするぜよ。歴史オタクの私が念願だった龍馬巡りをしてきましたので、幕末に興味がある同志ならきっと楽しんでもらえると思います。それでは飽きずに読んで下さいませませ口笛
スポンサーリンク


Contents

①深夜の京都ラーメン【恵比朱】

②幕末最大のミステリー跡地『近江屋』

③龍馬暗殺したのは誰か?最有力は『京都見廻組』か

深夜の京都ラーメン【恵比朱】

子供の頃から憧れてた念願の京の都にやっと来れたので、たった2泊だけど時間が許すだけ歩き周ろうと思いマッシュ口笛

京都駅に着いたのはもう深夜の0時過ぎだったので、構内も周りのお店も全部閉まってました。なので駅周辺をちょっと歩いて空いてるお店を探す事に。

歩く事5分、狭い路地を入っていくとぼんやり明かりが灯る居酒屋らしきお店を発見したので近づいてみると、、、

おー!!そこに立っていたのは、まさかの龍馬お龍さんじゃーあーりませんか(*’▽’)

こんな目立たないところに銅像まであるし、一人寂しく顔はめたりしてキャピキャピ興奮してました笑。誰もいないから、誰も写真撮ってくれんめーもん笑。

興奮冷めやらぬまま、また近くを歩いているとラーメン屋さんを見つけたので、最近ラーメンレポもさぼってるし、京都初のラーメンも食べてみたいので入ってみる事にしましょ。

★京都ラーメン『恵比朱

深夜の1時くらいだったの言うのに、店内は結構満席に近い感じで、会社帰りのサラリーマンや女性の方もいてワイワイと賑やかです。カウンター10席くらいとテーブル3つ程ありました。

メニューはこんな感じで、ラーメンの他にも定番の餃子やご飯もの、ちょっとしたつまり程度の一品料理もありますね。とりあえず、ラーメンと明太子ご飯を注文しました。京都に来てまで明太かい!!博多の人間はどこでも明太が食べたくなるとバイ!笑 あーお腹空いたー。

京都のラーメンはどんな味やろー、とんこつかなー醤油かなー、博多ラーメンには勝てんやろーとか期待を膨らませなが待つ事10分

さっそく食べてみると、、んん~これはまた独特なスープの味がしますねー。いちおベースはとんこつなんだけど、しょうゆと鶏の味が結構します。初めて食べる味です、『鶏だしとんこつしょうゆ』とでも言うのでしょうか。

でもめっちゃ美味しいです!!ギトギトとクセもなくあっさり系でどこか懐かしい味もするし、私が好きな感じでとても食べやすいです。さすが、京都ラーメンもあなどれませんな。また来た時には絶対食べたいと思いました。

この日はもう遅かったし、店出てこのままホテルに行って就寝。。
スポンサーリンク


幕末最大のミステリー跡地『近江屋』

一晩明けて、朝イチで向かいました龍馬と中岡が暗殺された、幕末最大のミステリーの跡地『近江屋笑い泣き残念ながら現在は建物は残っておらず石碑が建ってます。

大きなアーケードの通り沿いにポツンと立ってます。そんなに目立たないから、車だったらそのまま素通りするかもしれない。通勤時間帯だったので、たくさん人が通る中一人で写真パシャパシャしてましたzzz

この場所から暗殺者は入っていって藤吉を切り、2階にいる龍馬を襲ったんだなー。あーなんと言う事でしょう。。

★【近江屋

幕末に坂本龍馬や中岡慎太郎が暗殺された事件(近江屋事件)の舞台となった京都・河原町通りの近江屋は、由緒ある醤油屋であった。

店を営んでいたのは現在の四条河原町一帯に土地を持っていた名家・井口家で、幕末の井口新助の代に土佐藩の御用達となり、店の2階(井口邸)が龍馬らの滞在先となっていたという。

店としての近江屋は現存しない。新助の子孫が昭和前期まで「近新商店」の名で醤油を製造していたが、それも戦後に廃業となった。

幕末当時に店を構えていた場所は、現在「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と記された石碑が建っている場所の北隣にあたる。建立場所が隣地になったのは、1927年の建立の際、土地所有者の了承が得られなかったためとされる。

近江屋で暗殺される、慶応3年11月15日その日は龍馬の誕生日でもありました。色々な説がありますが、暗殺実行犯は6人いたと言われてます。そして、実際に2階にいる龍馬と中岡を2人で切りかかったみたいです爆弾

龍馬は京都にいる間この場所を根城としており、昼でも夜でも堂々と町を歩いては新政府案を練り上げる為に薩摩・長州さらに幕府側の重臣とも接触して、会談を重ねていました。

これは当時命を狙われていた龍馬にとってはとても危険な事で、周りからは用心するように言われていたにも関わらず、龍馬はそれをかえりみず動いてたのでしょう。目の前には土佐藩邸もあり、そこにいたなら暗殺される事もなかっただろうに、、悔やまれますな。
スポンサーリンク


龍馬暗殺したのは誰か?最有力は『京都見廻組』か

現在の最有力説と言うか歴史学者の中ではほぼ決定みたいですが、実行犯は『江戸幕府京都見廻組』と言われております。裏では薩摩の西郷さんだったり、新撰組だったり、はたまた外人など幕末最大のミステリーと謡われ、真実は謎に包まれてますメラメラドンッ

★【京都見廻組】とは?

京都における反幕府勢力は完全に駆逐できたわけではなく、復権の可能性を考え、幕府は、反幕府勢力の復活による治安の悪化を防ぐため京都見廻組を新設した。元治元年(1864年)京都守護職で会津藩主の松平容保の配下として、備中浅尾藩主・蒔田廣考松平康正を京都見廻役に任命。各200名ほどの隊士を指揮した。詰所は二条城の側に置かれたとされる。見廻組は新選組と同じく、反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したが、見廻組は主に御所や二条城周辺の官庁街を管轄とし、新選組は祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄とした。そのためか、新選組と共同戦線をとることはあまり無かったようである。

新選組と何が違うのかと言うと上記にあるように、管轄範囲を見れば勘が良い方なら分かるかもしれないですが、一番は身分の違いが挙げられますね。見廻り組はほぼ御家人や旗本と言った身分が高い上士クラスのエリートで構成されているので、管轄も最重要地点の御所や二条城などの官庁を担当していたようです。

対して新選組は身分が低い浪士出身者で集められたので、管轄も町人街や歓楽街といった一般人の中に入り込んだ反幕府の人間を取り締まっていたという感じですね。なので、同じ役割でも仲が良と言う感じでは決して無いようです。

暗殺実行犯については佐々木只三郎により今井伸朗、渡辺吉太郎、渡辺篤、桂早之助、世良敏朗、高橋安次郎の6人を選抜する。近江屋が龍馬の滞在先と言うのはとっくにバレていたので、龍馬が居る時を見張りを使っていつも把握していたようで、これも資料により証拠が残っています。

実行当日もこの見張り役によって、夜は在宅していると確認が行われ犯行に及んだようです。佐々木只三郎はかなりの剣の腕前だったようですので、いきなりの襲撃にはさすがの2人も防ぎきれなかったと思います。

龍馬が指名手配となった一番の理由としては、寺田屋で襲撃に合った際に龍馬が発砲したところ、幕府の獲り方を射殺させてしまった事が大きな要因になってます。もちろん、剣で人を切った事がないと言われるくらいですから、殺すつもりはなかったと思うのですが、よほど銃弾の当たり所が悪かったのでしょうね。

この通りの斜め向かいの方には、海援隊が隠れ家として使用していた酢屋』もあります。さらには河原町の歓楽街もあり、実際に龍馬や新選組らがここを歩いてたんだなぁと考えると何か江戸時代にタイプスリップした感じになりますね。この伝説の場所をこの目で見れて良かったです。

次回は龍馬や幕末の志士達のお墓がある京都霊山護国神社のレポートをしたいと思いマッスルえっ

それでは今回は以上となります。最後までお読みいただきありがとうございました。

スポンサーリンク 


シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする